第10回原子力安全シンポ参加メモ
1/31のココログに書いた経緯で、第10回原子力安全シンポジウムに参加してきた。こういった公的機関が主催するシンポジウムへの参加なんて初めてだったし、原子力関係ともなると色々と参加者管理が厳重なのかな?という思いもあり、少しこちらも緊張気味に会場の東京国際フォーラムに出かけた。
随分と立派な会場で、受付も落ち着いた雰囲気で、何気なくスタッフが入場者の様子を見ているような、ちょっと重厚なムードだった。会場には音楽が流れたりしてて、なかなか頑張っていた。(やっぱり学会主催のシンポジウムなんかより格段にお金を使ってるんだなという印象。)
思ったより参加者は少なかったようで、最終的には200人程度入れる会場に152名とやや余裕あり(受付の方は本日は満席となる予定と言ってたんだけど)。それもどうやら原子力関係者とか主催者関係者といった、どちらかというと内輪のメンバーが多かったのではないか?という感じ。漠然と思っていたような、原子力に反対する市民団体のような人達は、参加していなかったようだ。そういうものなのかな? あまり積極的な宣伝もしていないし。
さて、シンポジウムの資料は、いずれこの辺に載ると思うので、公式の議事録に掲載されているので、それを参考にしてもらうとして、ともかく全体としては、予想を遥かに上回るおもしろい内容で、わざわざ土曜日に出掛けて行った甲斐があったというもの。個人的にはとっても勉強になったし。
今回のテーマとして事前の資料にあった「わたしたちの安全と原子力」は、一部に過ぎず、むしろ『「わたしたちの安全」について皆さんとともに考えたいと思います。』がテーマだったのかな?おかげで内容は予想以上に面白かったんだけど。
最初の基調講演は、黒川清氏(日本学術会議会長)から、過去の歴史的な認識を元に安全についてのパラダイムが変わったことを認識し、国民一人一人が自分たちの将来を決めていかなくてはならない、というような主旨のお話。元気のいい方で、力強く断定的な口調で次々と話が続くので、それなりにインパクトはあったけど、考えさせる点というか、新鮮味は余り無かったかな。そもそも、この会場に来ている人は何らかの問題意識を持って来ているだろうから、ちょっとピントはずれの主張だったのかもしれない。
次は原子力安全委員会から、鈴木篤之氏が基調講演として、原子力の安全性についての最近の事故や事件を踏まえての動き、考え方の紹介。時間が短いのにも関わらず内容が盛だくさんのため、聞く側は消化不良気味。また、今回定量的安全目標として、百万分の一という数値を出したことについては、突っ込んだ説明はなかった。原子力の安全目標が、ゼロ災害を目標とするのではなく、定量的な・受け入れ可能な目標を掲げたこと自体が、画期的な方針転換らしいが、それがすんなり受け入れられる社会になるためにどうするかが、むしろ課題だろうな。
それと共に、安全というのが単なるハード面からの管理・規制といったものだけでなく、ソフト面の対策(手続き的安全性)、特に情報公開に代表される透明性の付与というのが非常に重要なのだ、ということが共通理解という時代になったみたいだ。本当にその通りに運用されるといいが。(種々の企業の不祥事等もあり、いやおうなく変わってきたということなのか?)
そして、休憩をはさんでパネルディスカッション。食の安全について金子清俊氏(国立精神・神経センター)、都市防災について室崎益輝氏(神戸大学教授)、原子力安全について松原純子氏(原子力安全委員会委員長代理)、リスク比較について東嶋和子氏(サイエンスジャーナリスト)がコメントを述べ、司会は小林傅司氏(南山大学教授)で進められた。時間は1.5時間の予定が、30分程度延長となり、それでもまだ時間が足りなかった印象。
内容としては、全く異なる分野のリスク(医・食・災害・原子力等)を人々はどう認識するのか? 安全と安心との相違は? というような観点から、社会の合意をどうやって得るのか、或いはどのように社会を変えていくのか?というような話。BSEのリスクの問題や震災・都市災害リスク等は、こうやって話を聞く機会もなかったので、中々面白く聞け、参考になった。
問題点としては、今回のパネラー陣は、専門分野は異なるものの、いずれもリスクとベネフィットの考え方、ゼロリスクは間違っているという考え方をする人々であり、これに対抗する意見の代表者が含まれていなかったことか。これでは、ディスカッションとは言えない。まして、限られた質疑応答時間に、事務局側の人間や原子力関係OBが積極的に質問・コメントするのは、プリミティブな質問や反対する意見が出にくい雰囲気を作っており、これは悪い点。
科学ジャーナリストの東嶋さんは、僕のココログでも紹介した、「遺伝子時代の基礎知識」の著者で、実際に話を聞いてみても、中々バランス感覚に優れた方と見た。中西先生の「演習 環境リスクを計算する」bk1、amazonを必読本だと宣伝してたけど、勉強してますなあ。僕も読まなきゃ。
それにしても、確率的リスク論で導き出された「科学的な結論」が社会に受け入れられるためにはどうすべきなのか? というのが今後の課題であることは明白だと思われる割には、余りそういうアプローチがなかったのが寂しい。例えば、総論賛成・各論反対のような問題、或いは全体としての数値(例えば年間死亡者100人)には納得できるけど、自分がその一人になるのは嫌だという問題。
僕自身は、社会全体が、そのリスクを許容したとして、具体的にそのリスクの被害者が出た時には、社会全体として、その個人に対して何らかの救済をするような仕組み(社会全体のための犠牲者という位置づけ)があることも必要かと思ってるけど。いずれにしても、自然科学的なアプローチだけでは無理で、社会科学的な種々の検討が必要と思うのだけど。
*原子力施設の事故による、施設敷地境界付近の公衆の個人の急性死亡リスクを年間100万分の1程度以下にする(年間平均100人以下)という定量的目標案だけど、よく考えたら、今までの数十年の原子力施設運転で、公衆の死亡者は恐らくゼロ人であり、とすると実績に比べると遥かに甘い目標とも言えるわけだ。(今までがとても運が良かったとも言えるのだろうか? 結局種々の疑問は解けないままか。。。)→2/14追記:別の資料を発見、この中で急性死亡確率の考え方の説明が記載されている。(分母が1億人ではなく、近隣住民数となる) ということで、年間死亡者数は限りなくゼロに近い(100万分の数人レベル)ようだ。やっぱり、確率での表現は理解が難しいな。
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