「もう牛を食べても安心か」
タイトルからは、BSEについての最新の情報が詰まった本のように見えるが、実際は少し趣きが異なるようだ。タイトルが「安全」ではなく「安心」となっているところもポイントかもしれない。著者の名前はどこかで見たことがあったのだが、科学書の翻訳などをしている分子生物学者だ。
文春新書 416
もう牛を食べても安心か
福岡 伸一 著 bk1、amazon
bk1やamazonのレビューでは相当に評価が高いのだが、読むと随所で違和感を感じさせられる本である。専門的な見地からの書評としては、群馬大学の中澤さんの書評が詳細にわたってコメントしてあり、とても参考になる。
本書は、BSE(本書では頑固なまでに「狂牛病」という表記をしているが)騒動が、人為的に発生したものであり、それは結局は、人々の間違った生命観に起因するものだ、というような立場で書かれている。そして、シェーンハイマーという科学者が提唱した「動的平衡論」(生物の体を構成している物質は原子・分子レベルでは常に、予想以上の速度で入れ替わっている)を軸として、「循環する」という生命観、世界観に従って、BSE問題などを論じている。
BSEについては、過去の研究からプルシナーまでその研究内容を、かなり詳しく紹介した上で、現時点では確かに異常プリオンがBSEの原因と考えられているが、実際には疑問点もまだまだ多く、「真犯人は、やはり未知の、非常に見つかりにくいウイルスであり、宿主の細胞に感染する際に、プリオンタンパク質が足場(レセプター)として必要である(p.192)」と考えることもできるではないか、と主張する。確かに、研究の歴史の長さや現在の研究手法や分析技術の進歩を考えると、いかにもまだわかっていないことが多い病気のようだ。
その上で、原因もまだ完全に解明されていないし、特定危険部位以外が完全に安全だという保証は何もないのだ、といういくつかの具体的事例を紹介した上で、だからこそ全頭検査は必要だという結論を述べている。完全に解明されていない以上、リスクが残っているではないか、ということなのだが、それはその通りだろうが、だから全頭検査が必要かというと、それは違うのではないか?
たまたま、今日の新聞(YOMIURI ON-LINEなど)に、マウスでの実験によると特定危険部位以外の部分にも異常プリオンが蓄積するというニュースが出ている。しかし、これはマウスの脳などへ直接注射しての実験であり、通常の食事からの感染ルートとは随分状況が異なることに注意が必要であろう。
本書でおもしろかったのは、イギリスの牛にBSEの大感染を引き起こした原因が、生後まもない幼牛に、スターターと呼ばれる、肉骨粉を水に溶いた代替乳を飲ませたことにありそうだということ。本来、タンパク質は消化器官で酵素により分解され、そのまま体内に取り込まれることはないはずなのだが、この期間だけは、母親からの免疫抗体を受け入れるために、タンパク質を体内に取り込むようにできているのだそうで、そのために異常プリオンが消化器官をすり抜けて取り込まれたのだろう、という推定である。
だとすると、ヒトが牛肉を食べることで新型CJDに感染するのはどういう機構なのか? まだ不明の点が多いにしても、体内に異常プリオンを直接注射したような調子で簡単に感染するとは到底思えない。もしも、肉骨粉の使用禁止が守られているとすれば、現在では牛への感染は相当に抑えられているだろうし、牛肉を食べるリスクは今後さらに低くなるのではないだろうか? 牛への感染ルートを推定していながら、一方では、ヒトへの感染はどうやって起こるかわかってないから不安だ、と大声で言うのはダブルスタンダードではないのだろうか?
さて、本書ではリスク分析の手法がポリティカルであるとして、真っ向からそれを批判しているのだが、その論理は、リスク分析を考える上でとても(反面教師的な意味で)参考になる。
死者の数を比較し、フグ毒と狂牛病を比較する。死者の数だけを比較して物事を論ずるのであれば、年間一万人が死ぬ自動車事故に比べてすべてのリスクはたしたものではなくなるだろう。リスク分析はあらゆる死者をフラットな数値に浄化してしまう。しかし、フグ毒で死ぬ人と狂牛病で死ぬ人は同じではない。これは実質的に同等ではない死者である。フグはある意味で時間の試練をくぐり抜けて私たちに納得されたリスクである。対して、狂牛病は人災であり、人為的な操作と不作為によって蔓延した、全く納得のできないリスクなのだ。著者の主張は一般には受け入れられやすいだろうと思う。同じように、突然訪れる理不尽な死であっても、受け入れられるものと受け入れがたいものがある、というのは感覚的には理解できなくもないのだが、それは何故なのだろう? フグで死ぬのは本当に納得できるのだろうか? だとしても、それは長年身近にあったからということでいいのだろうか? それでは、新しいリスクは全て許容できないということだろうか?リスク分析は現状を受け入れてその順位づけと線引きを行うことしかできず、リスクのもつ歴史的な意味を解読する力はない。リスク分析は現状を改革する熱意もその力も持ち合わせてはいない。(p.231)
しかし、この主張は、批判の対象である「リスク分析」を進めている、中西さんらの主張を理解した上のものとは思えない。限られた地球上の資源の下で、限られた資金を使って活動する以上、客観的な「順位づけ」をすることで結果としてより多くの人々の利益につながる行動をしよう、というのがリスク分析の精神だろう。現実には、各論の部分で個別の利害が対立する事態は避けられないし、対立する利害を調整するのだからポリティカルに使用されるのは当然だろうと思うのだが。つまり、科学的な手法で得られた結果をどう判断して、どういう対策をとるのか、というのはすでに科学の領域の外の問題なのだ。
著者の、循環をキーワードとした生命観や環境観はそれほど違和感なく受け入れられるのだが、そこで想定されている時間・空間スケールが大きく異なっているのかもしれない。今の日本人だけ考えれば、もちろん無理してアメリカから牛肉を輸入して食べる必要なんかないんだから、輸入は時期尚早と言う結論は別にいいのだろうけど。。
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コメント
まさに反面教師的な意味でとても参考になりました。
「狂牛病による死亡者」を1人減らすためのお金と労力で、「ふぐによる死亡者」を1万人減らすことができる。とまで書けば、一般にも受け入れられないと思いますが。
一にも二にも、情報を正しく伝えることが重要ですね。
投稿: cb2 | 2005/01/22 01:55
cb2さん、コメントありがとうございます。
こういう本はそれなりに多くの人達の支持を受けて、いろいろな場での議論の際に根拠として利用される側面があるだろうと思います。従って、賛同する意見ばかりでなく、疑問点や反論なども遠慮なくこういう場で表明することに、多少なりとも意味があるのではないかと思っています。ブログや書評サイトなどにより、多くの人が積極的にそれぞれの立場で意見を表明することが容易になってきたことも、良い流れだろうと思います。
「情報を正しく伝えることが重要」なのには全面的に同意します。しかし、正しい情報を基にしながら、間違った結論に導く論法もありますから、なかなか油断はできないです。我々一般人は、情報量も知識も限られていますから、専門家が予め用意した道に簡単に誘導されてしまう恐れがあります。情報の正しさだけでなく、使われている論法の正しさや、前提となっている価値観や世界観の正当性についてもチェックする必要がありそうです。
投稿: tf2 | 2005/01/24 20:11
BSE&食と感染症 つぶやきブログ
http://blog.goo.ne.jp/infectionkei2/
食品安全委員会などの傍聴&それを取り巻く企業・学者さん・メディア・諸団体?の観察日記
読んでみてください。
投稿: もうもう | 2005/02/03 12:41