「こわくない物理学」
帯には一言、「文系でも最先端がわかる!」と書いてある。サブタイトルが「物質・宇宙・生命」。どうやら単行本として出版された本の文庫化のようだし、こういう広い範囲を物理の視点で俯瞰的に見てみるのも楽しそうだ、と思って買ってみた。
新潮文庫
こわくない物理学 物質・宇宙・生命
志村 史夫 著 bk1、amazon
裏表紙には
生命体を刻めば、細胞、核、遺伝子・・・・・・やがて炭素や酸素や水素といった元素にたどり着く。しかし、いくら元素を混ぜても生命体は生まれない。「生命とは何か」この超難問に第一線の物理学者が挑む。その挑戦は、ギリシャ哲学、古典力学、相対性理論、量子論、宇宙物理学、生命哲学を巻き込む壮大な知的大冒険となった。難しい数式なしで、哲学としての物理学を追求した画期的名著。とある。「画期的名著」の割には、2002年に発行されている単行本(bk1、amazon)のamazonやbk1のサイトに読者のレビューが全く載っていない。この手の本は書評も書きにくいのは確かだろうけど、読んでみての感想としては、「画期的」の意味にもよるが、名著とは呼べないような気がする。。
この本の内容は、物理学ではない。まあ、文庫本一冊で物理学の最先端を概観しようとすると、こんな感じにならざるを得ないのかもしれないが、それぞれの部分の説明は相当に粗っぽいし、そこに歴史的な認識だとか哲学だとかが混入してくるから、よけいややこしくなっているような気がする。
著者の提起する、生命とは何かという疑問や、自己組織化の不思議さ、などは特に目新しいものではないし、正に最新の科学がこれらの問題に取り組んでいると思う。本書では、何故か最新のそういう成果や考え方はあまり出てこないかわりに、昔の哲学者などの言葉を多く取り上げて、彼らの哲学が現在でも通用する部分があることが強調されている。
哲学的な部分については「こうでなくてはならない」というものでもないだろうし、こちらや、こちらのように、様々な受け止め方があって良いと思う。
科学的な部分で少し気になった点を3点指摘しておく。1点目は、結晶が成長するときに固有の晶癖を維持して成長することの不思議さに言及し、雪の結晶が全体として正六角形に成長する過程を
それはまるで、一個一個の分子が雪の結晶(雪華)全体の形を把握しているかのようである。つまり、既存の結晶に近づいてくる分子が順に”正しい位置”に付くための、全体秩序に関する情報が各分子に伝わっているのではないかと思わざるを得ないのである。あるいは、一個一個の分子が全体秩序を保つために”正しい位置”に付く”意志”を持っているということであろうか。(p.188~189)と書いているが、どうだろう? 例えば雪の結晶が気相から成長する場合、決してこのように水分子が結晶表面にひとつずつ静的に付着するようなイメージではなく、気相からの析出と同時に結晶からの蒸発(昇華)が激しく起こっていて、結果として全体として最もエネルギー的に安定な形を保ちながら成長すると説明されているはずでは。。 もっとも、だからと言って、あの様々な形状をした雪の結晶の一つ一つが、何故その形にならなくてはならなかったのかを説明できるわけではないだろうけど。
2点目は、著者が「シンカ」という言葉を多用する点。いわゆる進化と全く同じ意味で使っているのだが、何故カタカナを使っているかというと、一般に進化は進歩するという意味で使われているが、生命の変化・分岐は必ずしも進歩や良くなるということを意味していないから、らしい。
ラマルクやダーウィンに端を発する科学的「進化論」によれば、原始生命を起原とする生物は「下等生物」から「高等生物」へと「進化」した。また、「進化論」の自然淘汰説の根底には「優勝劣敗」の原則があり、「優れたもの」が勝ち、「劣ったもの」が敗けることになっている。そして、われわれ人類(ヒト)はサルから「進化」した最も高等な生物ということになっている。(p.204)と書かれているが、ダーウィンがそんなことを言ったのだろうか? 進化を正しく取り扱った本を何冊か読めば、著者のこの思いは単なる思い込みに過ぎず、正等な生物学では、下等生物が高等生物に進化したなんて誰も考えていないと思うのだけど。。
3点目は、アインシュタインの有名な式、E=mc2 が「物質から生命へ」を解く鍵になる、として本書の最終章で出てくる以下の記述。
繰り返し述べたように、生物の生物たる根源であり、生物を無生物と分かつ生命が「物質を組織し、個体を形成し、種を形成していく無限の力であり、どこまでも自己を創造していこうとする目に見えない意志」であることを思えば、その目に見えない意志はすなわちエネルギー(E)であり、そのエネルギーは物質(m)を生み、さらに、そのようにして生まれた物質が目に見えない意志であるエネルギー、すなわち生命を生むのではないか。(p.239~240)この文章は物理学者が論理的に書いた文章とは思えない。哲学的な意味で思索にふける分にはどんな空想を巡らすのも自由だろうけど、物理学をベースとして書いた本なのだから、「エネルギー」という用語を、従来の物理学の定義とは異なる意味で使用するなら、それこそ「えねるぎー」とでも表記して区別する必要があると思うけどなあ。。
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