「人間は遺伝か環境か? 遺伝的プログラム論」
この手のタイトルの本が多く出回っているような気がする。そんなにこの2元論的な問いが幅を利かせているのだろうか? 以前、「やわらかな遺伝子」という本を読んで、ここでも紹介したのだが、そこでは、遺伝と環境のどちらか一方ではなく、その両者が互いに影響しあっているのだ、というような結論だったと思う。帯(というにはでかくて、本の半分以上を覆っているが)には、でかでかと「我々の人生を決めているのは結局のところ何なのだろう?」と書かれている。
文春新書 485
人間は遺伝か環境か? 遺伝的プログラム論
日高 敏隆 著 bk1、amazon
当然のことながら、本書でも遺伝か環境かという二者択一ではなく、両者が共に係わり合うのであるということなのだが、それを遺伝的プログラムという概念で説明している。このあたりの説明は、お得意の動物行動学の実験結果を豊富に織り交ぜて、とてもわかりやすいし、へーと言いたくなる様なエピソードも幾つかあって楽しめる。
次に、日高さんは人類の特殊性に触れたのち、何故か教育論を展開していくのだが、これがちょっと変てこというか怪しさを感じさせる論理である。まず、人間が他の動物と大きく違っていたのは、100人、200人規模の大きな集団で行動していたことがキーであったのだろうという仮説を提示した後(p.69)、
性別も年齢も違い、そしてキャラクターも違う多くの人々は、皆、それぞれに違う振る舞いをしている。それは全体としてみれば人間という種の動物のやっていることであるが、その多様性は驚くほどである。そしてこの多様性もまた人間の特徴にほかならない。それぞれの子どもは大集団の中の多様な人々の思い思いの振る舞いを絶えず間近に見ることによって、社会生活に必要なさまざまなことを学び取っていくのである。(p.73)と見てきたかのような話をする。さらに、現在のように数人単位の小さな家族の中で育ったり、学校のような同年齢の子どもたちの集団の中での教育では、多種多様な人々が一緒に暮らす大集団の言動から自然に学ぶ貴重な機会が失われてしまい、
結果的にどういうことになったかと言えば、かつてみんなが自然に学んでようなことが、ほとんど学習できなくなってしまったのである。つまり、石器時代の人々がごく自然な形で具体化していた遺伝的プログラムを、文明の進んだ現在ではほとんど具体化できなくなっているということなのだ。これは大変大きな問題ではないだろうか。(p.80)と展開するのである。で、面白いのは、これが書かれている章のサブタイトルが「最近問題化している子どものしつけやコミュニケーション能力の欠如の原因を考える。」であるということ。。 うーむ、さすがにスケールが違うというか、日高さんの「最近」てのは一体いつからなんだろう?? 今の教育の問題点を、戦前の教育や戦後から高度成長時代の教育と比較した議論は良く聞くけど、石器時代と比べて今の教育の問題を語るというのは何とも壮大ではないか! で、現代においてどういう教育をすればいいのかというと、それについては残念ながら何も書かれていないみたいだ。。
実はこの本の一番の見所は、(おまけとして?)末尾に約30ページを費やして掲載されている、著者と佐倉統さんの対談かもしれない。案の定、佐倉さんは日高さんの持論の違和感をやんわりと指摘したりするのだが、それを日高さんが受け流しているような、すれ違っているような、微妙な雰囲気で進む対談はなかなか読み応えがある。
ちなみに、この書評では何故かインテリジェントデザイン論と本書が同じ発想であると指摘している。いくら世界日報の書評とはいえ、これはひどくないか? 日高さんの名誉のために言っておくけど、本書にはインテリジェントデザインの話なんか全く出てこないし、訳の分からない知性の存在を認めたりしている部分も全くない、はず。 ん? もしかしてこの書評の人は、遺伝的プログラムを書いたのが「インテリジェント」な存在だと理解したのだろうか? だとしたら全くの誤解だ。。 本書でもそんな誤解を受けることを恐れて
すでに繰り返し述べてきたように、遺伝的プログラムは人がつくったのではなくて、遺伝的にできたものである。生物のひとつの種ができたとき、それとともにできたものなのだ。と書いてあるのにね。どのようにしてできたのか、それはわからない。われわれにわかるのは、遺伝的プログラムがその生物の生き方にじつにうまく合致しているということだけである。(p.133)
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