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2007/07/10

「トランス・サイエンスの時代」

いわゆるSTS(Science and Technology Studies; Science, Technology and Society; 科学技術社会論)については、最近いろいろな本が出ており、ちょこちょこと目を通している。先日の理系白書で私の意見を述べている石黒武彦さんが書かれた、岩波科学ライブラリー 「科学の社会化シンドローム」(bk1amazon)は、アカデミックなサイエンスの抱える問題(ミスコンダクト、ピアレビュー、アウトリーチ、競争、人材)が中心で、科学技術と社会の関わりを考える上では、やや狙いの異なる内容だった。

一方、少し前に手に入れた本だが、藤垣裕子さんが編集されたSTSのテキスト「科学技術社会論の技法」(bk1amazon)は、多数の事例(水俣病、イタイイタイ病、もんじゅ訴訟、薬害エイズ問題、BSE問題、遺伝子組換え食品、医療廃棄物、地球温暖化、Winny事件)を題材に、それぞれの問題を文系・理系の専門家が担当して科学技術と社会との接点で起こる様々な問題をどう解釈し、今後の科学技術と社会との関係はどうあるべきか、を考える上でなかなか有用で読み応えのある本であった。

今回の「トランス・サイエンスの時代」の著者の小林傳司さんも「科学技術社会論の技法」で、もんじゅ訴訟に関する章を担当しており、その考え方や説明の仕方もわかりやすく、とても興味深かったこともあり、今回の本も大きな期待を持って読んでみた。

NTT出版 ライブラリー レゾナント 035
 トランス・サイエンスの時代 -科学技術と社会をつなぐ-
  小林 傳司 著 bk1amazon

期待にたがわず、非常に面白い本であった。本書のタイトルである「トランス・サイエンス」とは、「科学によって問うことはできるが、科学によって答えることのできない問題群からなる領域」と定義されているが、1970年代に物理学者のワインバーグが提唱した概念とのこと。本書では、例えば原子力発電所の安全装置がすべて同時に故障するような事態が起こる確率が非常に低いことは従来の科学で計算して示すことができるが、その施設を十分に安全であるとして受け入れて良いのかどうかという問いは、従来の科学だけでは答えの出せない問題であり、このようなものをトランス・サイエンスの問題としている。

本書で具体的に議論しているトランス・サイエンスの問題は、BSE問題、もんじゅ訴訟問題、遺伝子組換え植物問題などである。このうち、BSE問題と遺伝子組換え植物問題については、最近日本で行われた「コンセンサス会議」の実態を通して、科学技術と社会との関係についての実験的で先進的な試みを紹介し、この手の問題に今後どのように向き合っていくべきかを考察している。

著者は、一般社会(市民)がBSE問題や遺伝子組換え問題などで示す拒絶反応について、科学者(推進)側は一般市民の側の知識の欠如が問題であり、適切な教育と啓蒙により正しい理解が得られれば、必ずや誤解は解けて問題は解決するものと考えがちだが、トランス・サイエンスの問題では必ずしもそうではないと指摘する。つまり、市民は科学者が思っているほど無知ではないし、十分に状況を理解した上で、なおかつ遺伝子組換え食品を拒絶するような立場を取ることもあり得るとしている。

これは、市民が必ずしもゼロリスクのような理不尽な状態を求めているのではなく、遺伝子組換え食品とか生殖医療などの先端技術に対し、その技術そのものの持つプラス面およびマイナス面を理解した上で、科学技術がそこまで踏み込むことの是非などの、価値観や倫理感、あるいは人生観に関わるような判断を問題にしているのだ、と述べている。

実際、本書で紹介されているコンセンサス会議では、市民の側も想像以上にハイレベルで熱い議論を繰り広げているのだが、この会議の参加者は積極的に応募してきた意識の高い人たちなので、これが一般的な市民の代表的な姿とは思えない。また、それぞれの市民がこれらの先端技術の背景や詳細など、問題を理解するのに必要な知識を全て獲得できるわけではないだろうと思う。逆に、科学技術の専門家がみんな倫理感に欠け、歪んだ価値観を持っているわけでもなく、科学技術の専門家と一般市民が異なる結論に到達すると決まったものでもないだろうに、という疑問も感じる。

本書では、従来のサイエンス・コミュニケーションは科学者側から一般市民側への教育といった意味合いの強い、一方向のものが中心だったが、これからは相互に対話をし、学びあう双方向のコミュニケーションが大切であると主張している。まあ、そうなのだろうけど、対話の前提としての教育の重要性はもっと強調されても良いような気がする。何故、専門家と一般市民が異なる結論に到達するのかを考えてみると、決して立場や利害の差だけではなく、知識や理解の差にも原因があるのも確かだろうと思ってしまうのだが、やっぱり僕も「科学の共和国」の住民なのだろうか?

それでも、科学の専門家が「科学の共和国」の中だけで議論していても問題解決には不十分であり、より広い世界である「トランス・サイエンスの共和国」で一般市民と共に、より広い視点で議論することが大切だ、という主張は正しいだろう思う。もっとも、本書で紹介されているコンセンサス会議でも、結局利害や主張の対立は最後まで埋まらなかったわけで、「トランス・サイエンスの共和国」だからといって容易に問題解決ができるというわけではないのだが。。

本書の最後の部分がとても印象的なので、引用する。

われわれはいかに科学技術に投資をし、その研究を進めようとも、システムの巨大さに起因する不確実性からのがれることはできないであろう。世界は確率論的に描写され、「ゼロリスクはない」と専門家は言い続けるであろう。しかしこれは言い換えれば、いつでも災厄が起こり得るということである。

であるとすれば、奇妙な言い方ではあるが、「納得のいく」災厄であってほしい。トランス・サイエンス的状況における意思決定は、専門家の知の限界を見極め、トランス・サイエンスの共和国という拡大されたピアによって下す以外にない。もちろん、失敗は避けたい。しかし、究極のところ、われわれにできることは、合理的な失敗の方法の模索に尽きるかもしれないのである。失敗するとすれば、納得して失敗したいではないか。トランス・サイエンスの時代、科学技術を使いこなすにはこれくらいの覚悟がいるようである。

科学技術のあり方を議論してきて、最後は悟りの世界にたどり着いてしまうというのも、ため息ものなのだが、でも結局はそういうことだろうな、という妙な納得感もある。。

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コメント

ぼんやりと思うことを書かせてもらうと、多分一般の人は「安心したい」って考えてるんじゃないでしょうか。
でも科学者としては科学的厳密さで、データから見る妥当性の話ばっかりなんだと思うんです。
きっと科学者は妥当性にこだわる余りに、科学を使う一般の人の「気持ち」をないがしろにしているんじゃないかと思いました。


別の方向から言うと、意見を「押し付けられ」たがっている人が多いんだと思います。
これこれ、こういうデータなのでこれくらいの安全幅で運用しています。と言った場合、
じゃあ「安心」なのか、と一般の人が言ったら、科学者は多分、それは、各々で判断して下さい。となるわけですが、
それはきっと安心には繋がらない。だから、言葉は悪いですが、「うまいこといって安心させる人」っていうのが大事なんじゃないかと思いました。
それが、社会で生きざるを得なくなった科学には多分必要な事なのではないでしょうか。

助長な文でスイマセン…。

投稿: XTC | 2007/07/17 13:58

XTCさん、コメントありがとうございます。

ご指摘の側面は、確かにその通りだと思います。ただ、この考えは既にある程度世の中にも認識されていて、最近よく聞く「科学コミュニケーター」とか「インタープリター」などと呼ばれる人達を養成して、科学と一般社会の間をつなごうという動きなども、この方向のひとつだろうと思います。

一方、この本で著者が述べているのは、科学の側から情報や知識を一般社会に伝えるコミュニケーションだけでは不十分で、むしろ一般社会と科学が渾然一体となって、様々な価値観を持ったメンバーが真摯に議論する中で、より良い社会的なコンセンサスが得られる、といったことだと思います。

まあ、一般社会の人々は正に多様なわけで、皆がみんな意見を押し付けられたがっている人ばかりではないし、逆に科学者と一緒に議論したい人ばかりでもない、ということでしょうけど。。

投稿: tf2 | 2007/07/17 20:08

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